2012年11月10日土曜日

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

最初にアンコール・ワットを訪れた日本人たち

(1)有名な森本右近太夫一房の墨書
 17世紀初期、アンコール・ワットを訪れた日本人がいた。肥後の松浦藩士の森本右近太夫一房であり、記録として残っている日本人としては、5番目に古い参拝者である。右近太夫の父の義太夫は、加藤清正の家来であった。右近太夫は、その父の菩提を弔うために、当時、平家物語に出てくる「祇園精舎」だと信じられたアンコール・ワットを訪れたのである。右近太夫は、寛永8年(1631 年)の暮れから9年(1632 年)の正月の間に、松浦藩の朱印船に便乗してカンボジアに到着し、寛永9年(1632 年)、アンコール・ワットの十字回廊に、「父の菩提を弔い老母の後世を祈るため」と記した次の文章を豪筆している。

1 森本右近太夫一房の墨書

寛永九年正月ニ初而此処来ル生国日本
肥州之住人藤原朝臣森本右近太夫
一房御堂ヲ志シ数千里之海上ヲ渡リ一念
之胸ヲ念ジ重々世々娑婆浮世ノ思ヲ青ル
為ココニ仏ヲ四行立奉物也
摂州津西池田之住人森本右近太夫・・・・・・・・
家之一吉○裕道仙之為娑婆ニ・・・・・・・・・・
茲ニ盡ク物也
尾州之国名黒ノ郡後室○・・・・・・・・
老母之魂明生大師為後生・・・・・・・・
茲ニ盡物也
                 寛永九年正月卅日

(2)17世紀のアンコール・ワットと日本
 右近太夫の訪問期というのは、ポスト・アンコール期にあたり、1431年のアンコール朝崩壊後、アンコール・ワットは上座仏教寺院に衣替えした時代である。、ポスト・アンコール期の偉大な王、アン・チャン1世(154676年)はアンコール・ワットを修復し、それ以後、各王がアンコール都城の復興を行い、住民の移住を奨励した。ちょうど同じ頃、西欧の宣教師たちも、この旧都の様子を書き残している。
 一方、日本では徳川家康が慶長8年(1603 年)に幕府を開いた。その時代、外国と日本との往来も盛んで、数多くの日本人が朱印船貿易によって現地へ赴おもき、日本人町を形成していた。カンボジアには、プノンペンと貿易港ピニャー・ルーの2ヶ所に日本人町があった。また、当時の日本人はこの東南アジア地域を南天竺と考えていた。
 しかし、右近太夫がアンコール・ワットを参詣した3年後の寛永12 年(1635 年)には、鎖国の方針が打ち出され、渡航禁止と帰国日本人の踏み絵が発表された。右近太夫は鎖国前のこうしたあわただしい雰囲気の中で帰国したようである。それと時を同じくして、1632 年加藤家は改易となり、すでに肥後(熊本)は細川藩に変わっていた。右近太夫は、松浦藩に仕えた後、父義太夫の生誕の地である京都に移り住んでいた。京都の寺で発見された墓碑には、父義太夫の法名のみ刻み込まれ、森本の俗名はない。しかし、位牌には森本義太夫が1651 年に没し、森本佐太夫(右近太夫)は1674年に没したとある。右近太夫は海外渡航時に使用した実名を隠し、厳しい鎖国令に対して社会的に身を隠す必要があった。そのため、右近太夫が改名し、佐太夫を名乗ったのである。また、森本家の子孫が新たに仕えることになった細川家に対する配慮もあった。

(3)森本右近太夫一房についての伝聞
 森本右近太夫一房の没後も松浦藩にはアンコール・ワットが伝えられていた。平戸の松浦藩主松浦静山の随筆集『甲子夜話』正篇巻21 の中に右近太夫の記述がある。

「清正の臣森本義太夫の子を字右衛門と称す。義太夫浪人の後宇右は吾天祥公の時お伽とぎに出て咄はなしなど聞かれしとなり此人誉て明国に渡り夫それより天竺に住たるに彼国の堺なる流砂川をわたるとき大魚を見たるが、殊ことに大にして数尺に及びたりと云夫それより檀特山に登り祇園精舎をも覧てこの伽藍がらんのさまは自ら図記して携還れり。今子孫吾中にあり正しくこれを伝ふ然ども今は模写なり。」

 『甲子夜話』は文政4年(1821年)11 月甲子の夜に筆を起こし、天保12 年(1841 年)6月に死去するまでの、20年間にわたって書き綴られたものである。ここにある「ここより檀時山に登り祇園精舎をも覧て」とは、「ここより中央嗣堂に登りアンコール・ワットを一覧した」ということである。また、これらの記述から、右近太夫によるアンコール・ワットの絵図が松浦家中に残されていたことを示している。

(4)アンコール・ワットを訪れた日本人たち
 この他、アンコール・ワットの十字型中回廊の壁や柱などには、日本人参詣者の墨書跡が15ヶ所残っている。判読できるこれら落書きの年代は慶長17年(1612年)から寛永9年(1632 年)まで20 年間のものである。この時代は、朱印船の活動が活発であった時代であり、墨筆者は朱印船に搭乗した人たちであった。例えば、慶長17 年(1612 年)度の墨書には“日本堺”と記すものが多く、同地の商人によって送り出された船に乗っていた団体旅行を行ったの人であった。また、朱印船には船の運航に必要な船員の他に、便乗商人というべき客商も少なからず乗り組んでいた。彼らは寄航地において独自に貿易を行ったが、船の商品の上げ下ろしには直接関係がないから、次の出航までの問を利用してアンコール・ワットに詣もうでることも可能であったろう。肥後国の安原屋嘉右衛門尉は、これら客商の一人であった。
また、墨書にある地名として「泉州堺」と「肥前」「肥後」、さらに解読が難しいが「大阪」らしき地名が現れている。つまり、渡航者は平戸、長崎、肥前の出身者が多く、次に堺および大阪商人であった。
 これらの墨書の位置を図2に示す。



2 日本人墨書の位置(十字回廊付近の拡大 ①が森本右近太夫一房の墨書  
 以上、これらの多くの日本人の痕跡がアンコール・ワットに存在し、カンボジアと日本との意外な関係があった。しかしながら、残念なことに右近太夫の墨書は、1970年代の内戦時、ポル・ポト派によって墨で塗り潰されてしまった。そのため、現在は大変読みづらいものとなっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿